以前(今も?)、NHKでやっていた街角ピアノ、という番組はなんとなく好きで見ていた。日本だけではなく、海外の空港など、わりと公共の場で通りがかりの普通の人が即興で弾くのを定点カメラで撮る、というなんのストーリーもない番組。弾いている本人に話を聞くとそれなりにストーリーはある(ストーリーが無い人はカットされているのだろうけど)。弾く人の中には音楽を嗜んでいるので弾いてみた、と言う人もいれば、スリーコードで単調な曲しか弾けない、と言う人もいて、それでもなんとなく見ていて(聴いていて)悪い気はしなかった。

性善説で成り立っていたものが崩れた?
最近、ストリートピアノに関するニュースを見た。関西のある場所に置かれたストリートピアノについて運営者側からSNSの「X」に断りが入った、とのこと。内容を端的に言うと「このピアノで練習しないで。練習は家でやってください」「長時間間違えながら弾く演奏を聞かされるのは迷惑」「練習してつっかえずに弾けるようになったらここで弾いて」という内容。
最初にこの文書を読んだとき、この文書を出したのが誰なのか、はっきり理解できなかったがよくよく読むと、ピアノを設置した運営者が出したものと理解できた。理解できたと同時に、なんだか頭の中が混乱した。ピアノを設置した趣旨が「誰でも弾いて良い」はずなのに「へたくそは弾くな」と捉えられるからだ。
実際その場面にいたわけではないのでどういう状況だったかは想像するしかないが、おそらくフードコートという不特定多数の人が一定の時間、滞留して(例えば1時間とか)食事をするような場所で、半人前の人が比較的長時間ピアノを弾き続けた、という状況のよう。
ピアノを弾いている側からすれば、何ら制限されているわけでもないのだから普通に弾いていただけなのだろう。設置した側からすれば想定以上に(?)半人前の人が弾き続けたというのが本音かもしれない。またその場に居合わせた人ももっと上手な人が弾くものだ、と思っていたのかもしれない。関係する人たちの性善説で成り立っていたものが崩れた感がある。

結論。このピアノは置き場所を間違えたのではないか。
そもそもストリートピアノは聞かせるピアノではないはず。誰かがピアノを弾いているなぁー、くらいの存在感が適切。その一方で誰でも弾いても良いとされているので、人が長時間滞留すれば、その演奏が上手い下手に限らず、いやでも音が耳に入ってくる。運営側はそういう意図を兼ね備えた場所を選ぶべきだったのではないか、と思う。
公共の場なのだからピアノを置いた側、聞く側、弾く側すべてにおいて一定の性善説で物事が成り立つものなのだが、ピアノが設置された場所が場所だけに、バランスが崩れたのではないか。
さらに話を複雑にしてしまったのが運営する側(ピアノの設置側)が「もっと上手に弾けるようになったらここで弾いてもらえれば」という意見を出してしまったこと。誰でも弾いて良いとしていた側が「もっと練習してこい」風に捉えられるような文書を出すのはお門違いではなかったか。本来の理想とは違っていたのだろうけど、少し考えればもっと適切な意見が言えたはずなのに、なんだか残念な話になってしまった。
結局、このピアノに関しては撤去される見通しだという。これがきっかけで各所のストリートピアノが問題にされるようなことになったら、悲しい話。運営する側が今回の問題を整理して、あるべき姿を示してほしいものである。
